【齋藤彰俊引退記念SPECIALインタビュー前編】インディーからメジャーの新日本プロレスへ!6万人の大ブーイングは声援にも聞こえた
7月13日の日本武道館で潮崎豪に世界ヘビー級王座を明け渡した後、その場で「潮崎、TEAM NOAHを、プロレスリング・ノアを、プロレスを、よろしく頼む!」と引退表明した齋藤彰俊。引退試合が11月17日、愛知・ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)における『Deathtiny』に決定した今、その波乱に満ちたプロレス人生を振り返ってもらった。今回は前編としてNOAHに上がる以前の時代について語ってもらおう。(聞き手/小佐野景浩)
――7月13日、日本武道館で潮崎豪に敗れた後に引退表明しましたが、それはあの瞬間に出たものなのか、あるいは齋藤選手の中に「もし、こういう状況になったら…」みたいなものはあったのでしょうか?
齋藤 キャリアとかいろいろなことを考えると、今から5年、10年があるわけはないかと思ってたんですけども、あの日は防衛してシオに伝えたいことがあると。確か2009年に同じ日本武道館で潮崎選手とやってるんですけど(09年9月27日)、あの時は潮崎選手がGHCチャンピオン、自分がチャレンジャーという立場でした。広島の6月13日のこと(09年6月13日、広島グリーンアリーナ小ホールにおける齋藤&バイソン・スミスvs三沢光晴&潮崎のGHCタッグ戦のアクシデントで三沢が急逝)があって、自分の中で伝えなければいけないこととか、やらなきゃいけないことがあると思ってはいたんですけど、そこから潮崎選手ともう1回選手権をやっていて、常に潮崎選手がチャンピオンで、自分がチャレンジャーという形でした。闘いの中でファンの皆さんや潮崎豪という男に伝えることはできるんですけど、自分から何かを教えたいとか、伝えるっていうような強い部分の時には、自分がベルトを持っていて、潮崎豪がチャレンジャーじゃないと伝わらないんじゃないのかなというがあって、このキャリアになって頑張ってシングルのベルトを獲ったんですけど、日本武道館ということもあり、15年という月日が経って「ああ、この時が来た」と。で、マイクで言った言葉はすべてホントで「本当は防衛して皆さんに伝えたいことがあった」って言ったんですけど、15年前は自分がスリーカウントを聞いて武道館の独特の天井を見てしまったと。今回はシオにそれを見てもらって、NOAHの闘いとは何かっていうのを感じてもらいたいと思ったんですけど、また自分が天井を見ることになった。その時に「多分、今日の武道館は三沢さんもバイソンも見てくれているだろうな」っていう思いと「日本武道館というノアの聖地で、また相手が同じ潮崎選手」と思った時に「ああ、もしかしたら今かな?」と思ってしまったんですよね。それで言ってしまったんですけど、TEAM NOAHのメンバーも何も知らないので、いろんな表情が見れたと思います。
――対戦相手の潮崎選手はもちろん、メンバーみんなが呆然としていました。
齋藤 プロレスって「こうなるんじゃないか?」って観るのもひとつの楽しみなんですけど、以前、自分が新日本プロレスに殴り込んだ時も、選手たちが何も知らない状態で殴り込んだからこそ、見れた素の感情があったと思うんですよ。だから今回も、選手権をやった男がその日にこんな表明をするとは思ってないでしょうから、その素の部分というのが皆さんの心に響いたんじゃないかなと。ひとつ自分がやらなきゃいけないこと…「プロレスとは何ぞや」というところも兼ねて出てしまったところがありますね。
――15年前の日本武道館の潮崎戦と同じ白のコスチュームだったので、大きな覚悟を持ってのタイトルマッチだということは感じていました。
齋藤 白にしようと思った時には試合まで2週間を切ってたんですよね。それまでは黒でいこうと思ってたんですけど「ああ、日本武道館で対角線にいるのが潮崎豪だ」と思った時に、これは覚悟の上でも白だなと思って、間に合うか間に合わないかわからないっていう中で作ったコスチュームですね。だから、その時、その時の素の感情で決めたことではありました。
――そして7月22日に引退会見を正式にやりまして、11月17日にドルフィンズアリーナでの引退試合が決まりましたが、今現在の心境はいかがですか?
齋藤 引退というと、皆さん「お疲れさまでした」とか「これからどうするんですか?」みたいなところがあるんですけど、自分の中では11月17日が決まったので、そこに向かって全力で進むだけですね。「お疲れさまでした」って言われますけど、落ち着くつもりはまったくないので、そこまでは突っ走ろうと思っているのと、ドルフィンズアリーナ…愛知県体育館は初めてNOAHに上がった場所(00年10月11日)なので、何となく自分の意思だけでなくすべてがそうなっているのかなと思った時「ああ、決めてよかったな」っていうのもありましたね。世界ヘビー級のベルトを獲ったのもデビューから33年目の3月31日(ZERO1の東京・靖国神社相撲場大会でクリス・ヴァイスから奪取)、第33代の王者で防衛も3回だったので、何だろうっていう(笑)。自分では小説よりももっと劇的なものじゃないかなと自分では感じているので、導かれているかなという気もします。
――そんな齋藤選手は本当に波乱に満ちたプロレス人生を送ってきました。デビュー戦は90年12月20日、パイオニア戦志の半田市民ホールにおける金村ゆきひろ戦ですけど、プロレスのリングに初めて上がったのは89年10月6日の露橋スポーツセンターにおけるFMW旗揚げ戦での空手のエキジビションです。水泳選手だったのが、なぜ、そういう流れに?
齋藤 その頃の水泳の日本選手権はNHKでやってたんですよね。で、今と違って予選を1位で通過すると、自分の好きな曲で入場できるんですよ。自分は『パワーホール』(長州力の入場テーマ曲)で入場しました。全日本で決勝に残って優勝するっていう時なのにNHKの解説で「彼はアントニオ猪木のファンで、闘魂パンツを穿いて練習しているんです」って流れましたからね(笑)。それぐらい好きではありましたね。高校3年の時、地元の名古屋でインターハイに優勝して、その時はハルク・ホーガンが「イチバン!」って言っている時期で、自分も表彰台で「一番!」って叫びましたから、好きは好きだったんですね。
――空手を始めたのは、やはりプロレスラーへの憧れですか?
齋藤 それもありましたけど、その頃は『空手バカ一代』、ブルース・リーも好きでしたし。それで空手をっていうところですね。
――FMWの旗揚げ戦で空手のエキジビションに出場した経緯というのは?
齋藤 皆さん、自分がプロレスを好きなのは知っていて、青柳(政司)館長が大仁田(厚)さんと『格闘技の祭典』(89年7月2日、後楽園ホール)でやった時にセコンドに付いて、そのぐらいからプロレスのリングに触れるようになりました。
――大仁田厚と誠心会館の青柳館長のプロレスvs空手の異種格闘技戦ですね。あの時は大仁田選手のセコンドと空手側の人間が大乱闘になりましたが、斉藤選手もいたんですか?
齋藤 タンクトップを着ていて、乱闘しました。
――ということは大仁田選手のセコンドにいた現在の邪道、外道選手に突っ込んでいったことになりますね!
齋藤 はい、突っ込んでましたね。あの時、館長に「プロレスはいいぞ!」って言われたんで、自分は準公務員として愛知県スポーツ振興事業団にいたんでけど、そこを辞めて館長に「館長にプロレスラーになれって言われたんで、辞めてきました!」って言ったら「バカ、なんで辞めるんだ!」って言われて、次の日から引っ越し屋とか、米屋のバイトとか、バーテンの仕事をやるようになったんですけどね(笑)。
――FMWの旗揚げ戦は大仁田vs青柳がメインイベントでしたから、その関係で空手のエキジビションに駆り出されたわけですね。でもプロレスラーとしてのデビュー戦は剛竜馬のパイオニア戦志でした。
齋藤 パイオニアでデビューして「これから一緒に頑張っていこう!」って剛さんに言われたんですけど、その日が最後だったんですよ、パイオニア(苦笑)。その後、誠心会館で自主興行を1,2回やったんですけど、その後、世界格闘技連合W★INGから声が掛かかりまして。世界格闘技連合というので、昔のUWFみたいなイメージで、合宿も柔道、サブミッションアーツ、空手が交流してやったんですけど…後楽園ホールで受けたのがイスでしたね(苦笑)。プロの洗礼ですよね。とんでもなくキツいような「これがプロレスなんだ」って。
――W★INGでは柔道の徳田光輝、サブミッションアーツの木村浩一郎、そして空手の齋藤選手が格闘三兄弟として売り出されましたけど、3人ともプロレス経験がほとんどなかったんですよね。齋藤選手は実戦の中でプロレスを学んでいった感じですか?
齋藤 意外と教えてくれたのがジプシー・ジョーさんです。反則攻撃の対処ややり方を教わったり。その頃、シュートっていう言葉が中途半端に流行ってましたけど「プロレスラーが言うシュートは殺し合いだぞ。だから、そう簡単に口にするんじゃない」って教えられましたね。プロレスってこういう世界なんだって。あとはインディーの始まりみたいな感じだったので記者の皆さんに「こんな団体は3ヵ月で潰れるよ」って言われたんですよ。その時に「いや、見とけよ!」って思ったんですけど、3ヵ月で終わったんですね。だからプロの記者は凄いなあと(苦笑)。
――そして齋藤彰俊という名前が知られるようになったのは92年に新日本プロレスに上がるようになってからです。92年1月4日、新日本の東京ド―ムのリングに立ち、誠心会館として新日本に宣戦布告しました。
齋藤 今だったら「個人商店が大企業にあんなことを言うなんていうのはタブーでしょ」って大人になったのでわかるんですけど、その頃はわからなかったし、よく「館長と乗り込んだ」って言われるんですけど、館長は新日本側で、その前の誠心会館の自主興行(12月23日、後楽園ホール)で、自分は馬乗りになって殴られているんですよ。「お前、わかってるのか!?」って。
――あの新日本との騒動は、前年の12月18日の新日本の後楽園ホール大会の控室で小林邦昭選手と誠心会館の門下生が揉めたことが発端ですよね。
齋藤 これは話していいのかわからないですけど、高校生の頃にある程度ヤンチャな部分があって、グループを作ったんですね。そこで自分はアタマでやらさせていただいていて、今は空手の道場を持っていて、娘さんは東京オリンピックのテコンドーに出ている松井(啓悟)という男が特攻隊長だったんですが、それが誠心会館にいて(館長の)荷物を持って行った時にドアを閉めた、閉めないで(小林選手に)殴られたと。それで電話がかかってきて「俺、殴られたんだよ。このままじゃ気が収まらないから行こうと思ってんだ」っていう話を聞いて。でも、彼はアパレルの会社に勤めていたので、どんどん話題が大きくなっていって「これ以上はできない」ってことで「なら、俺がケツ拭くよ。腐ってもプロだし」みたいな感じで。その頃、そんなことはできないとは思ったと思うんですけど「じゃあ、6万人の前で挑戦状を読むぐらいの根性があるなら受けてやるよ」と言われたんで…いっちゃいますよね! いっちゃって、6万人の大ブーイングを受けて。お客さん全員が敵でした。でもプロレスのリングに上がれるという嬉しさもあるし、メジャーに行けるというのもありましたし、6万人からの大ブーイングはある面、自分の中では声援みたいにも聞こえたのかもしれないですね。注目されているっていうことですので。
――そして1月30日の大田区体育館(現・大田区総合体育館)で、正式な試合ではないということで全試合終了後に小林選手との一騎打ちが組まれ、その後は小原道由選手、越中詩郎選手との一騎打ちと、ひとりの戦いが続きました。
齋藤 (小林戦は)入場曲もなく、観たい人だけ観ていってくれというスタンスで。その当時にセコンドに付いてくれた空手のメンバーは、会社の有休を取ったり、学生のコたちが来てくれたんですけど、あの頃はプロレスファンの方も熱くて、大阪臨海スポーツセンター(2月12日=越中戦)なんかはカイザーナックルみたいな持っているのもいて。で、セコンドがみんなやられていって、減っていくんですけど、それぐらい皆さんが熱くなっていたっていうところが、かえってよかったのかなと思いますけどね。
――その後、新日本側にいた青柳館長が斎藤選手に付き、小林選手、越中選手とも抗争の中で認め合うようになって、やがて結託して反選手会同盟…のちの平成維震軍が誕生するというのがざっくりとした流れですよね。
齋藤 小林さんと最後、両国(4月30日)でやって決着がついて、自分が負けたので(誠心会館の)看板を渡したんですけど、その時に長州さんが「お前たちからこの看板はもらえないよ」って返してもらったんですけど、でも「負けて返してもらっても…」って感じで、もう1回、戦いたいっていう時に、もちろん会社(新日本)は認めていないんで、あの時の選手会長と副会長だった越中さんと小林さんは(誠心会館の自主興行に)出場しちゃいけないって言われていたんですよ。でも戦っている中で何かを感じていただいて、来ていただいて、それで選手会をクビになるわけですよ。そこから反選手会同盟というのができました。
――新日本の現場監督の長州さんが齋藤選手に「お前、よく頑張った!」と、看板を返却したのに、それを拒否したところから反選手会同盟の流れが生まれたわけですよね。
齋藤 長州さんに「普通は10年かかるのを、お前は1日でやったな」みたいなことを言われたのは嬉しかったのは嬉しかったですけど、ただそれを「ありがとうございます」ともらうわけにはいかなかったので。
――あの時代、毎日が刺激的だったんじゃないですか?
齋藤 刺激あり過ぎですよね(笑)。全員で坊主になったのも刺激ありましたし(笑)。
――当時の齋藤選手はプロレスの試合をしているんですが、空手家という部分を残していた印象があります。
齋藤 よく仰っていただければ“残して”なんですけど、プロレスラーになりきれてないっていうところもあったとは思うんですよね。普通は入門して、そこでしっかり基礎ができたあとのデビューなんですけど、自分の場合はそこが逆になっていたので。
――いきなり戦いから始まってしまいましたからね。
齋藤 戦いの中から学んでいくいっていう感じでしたね。ザ・グレート・カブキさんにはいろんなことを教わりましたね。受け身から、プロレスのいろんなことから。
――平成維震軍としてだけでなく、ドン・フライと異種格闘技戦もやりましたが(98年10月18日、神戸ワールド記念ホール=TKO負け)、新日本にいたのはその年の暮れまででした。区切りを付けたのはなぜですか?
齋藤 プロレスを好きで観ていた時、レスラーって普通の社会人と違って、自分のためにとか「たとえ上司だろうが何だろうが、正しいと思ったことを…」っていう非日常的なところに憧れを持っていたんですね。それに自分の気持ちを投影させてストレスを発散させたり、勇気をもらったりっていう感じだったんですけど、大きい団体にいる中で、先輩の言うことを聞いていたり、会社に言われる通りにやっていたら、もちろん地位であったり、収入であったり、いろんなものがあるんですけど、「いや、これはちょっと自分が思い描いていたプロレスラーというものとは違うぞ」と。その時に一度全部捨てようと思って。1回全部やめて、まったく全部を捨てた上でハングリー精神を取り戻したい…自分が準公務員を辞めて小林さんとやった時っていうのは「ここで何かができなかったら、俺のすべてが終わりだ」っていうぐらいのハングリー精神があったんですよ。何も約束されてない中での挑戦だったので。その時の気持ちを考えたら「違うんじゃないかな」と。あの時はライガーさん、坂口(征二)社長、倍賞(鉄夫=取締役)さんとかも止めてくれて、倍賞さんは「ハングリー精神を身に付けたいんだったら、給料は渡さずにこっちでプールしておくよ。自分で納得したら受けとりゃいいじゃん」って言ってくれたんですけど、それでも違うなと思って「とにかく辞めます」と。そこから始まりまして。
――やっぱり、あの大きな新日本にひとりで挑戦した時の刺激が凄過ぎたというのがあるかもしれないですね。
齋藤 そうですよね。それから比べたらとか、自分の夢であった世界で生きているにもかかわらず、自分がなりたいものとは違うなというのがあって、1回捨ててみようと思って捨ててしまいましたよね。
――またプロレス界に戻ってくる気持ちはあったんですか?
齋藤 ありました。ハングリー精神が自分自身に戻ったら、その時はリングに上がろうと思ったんですけど、それまでは一切。1回だけ上がったのは小林さんの引退の時(2000年4月21日、後楽園ホール=引退セレモニーに出席)だったんですけど。それ以外は一切リングに近付かない、自分がプロレスラーだったことも一切言わないと。
こうして齋藤彰俊はプロレス界から姿を消す。そして2年の空白を経て、戻ってきたリングはプロレスリング・ノアだった――。
(中編に続く)
齋藤彰俊引退記念大会 Deathtiny
日程:2024年11月17日(日)
開始:15:00
愛知:ドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)
チケットはこちらから