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GKこと金沢克彦氏による衝撃のコラムを公開!「希望に満ちたスタートとなるか、荒波の中での苦しい出発となるか」

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ある意味、これが最後の船出となるであろう3・10横浜文化体育館大会が、希望に満ちたスタートとなるか、荒波の中での苦しい出発となるか、予測不能。

 いやはや、とんでもないことになった。あまりにイレギュラーすぎて、“違和感”バリバリである。ワタクシ金沢が、プロレスリングNOAHのオフシャル・ホームページにコラムを寄稿するというのだから……。

 ビギナーファンの方にはよく分からないことかもしれないし、そういう人たちにとって私の存在は、「新日本プロレス中継の解説をしているオッサン」といった程度の認識となるだろう。ただし15年以上プロレスを見ている、いわゆるマニアの方々からすれば、やはり「あり得ないこと」であり、大袈裟に言うならひとつの事件と映るかもしれない。

 そのあたりの経緯は思いっきり遡ることになる。しかも30年近くも昔の話。1989年11月、『週刊ファイト』記者だった私は、『週刊ゴング』へ移籍した。翌年、日本マット界、とくに全日本プロレスに激震が走った。

新興団体SWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツ)が巨大資本をもって、プロレス界に参入。4月、全日本の看板スターであった天龍源一郎が移籍を表明。その後、多くの選手たちが天龍に続いた。また、新日本からも退団選手が出て、9月、陣容の整ったSWSはプレ旗揚げ戦を開催した。

 それに伴い、『週刊ゴング』の全日本担当記者であった小佐野景浩さんが、SWS担当へと異動。全日本担当のイスがポッカリと空いてしまった。当時は、全日本プロレス、新日本プロレスの2強時代で、そこに第二次UWF、大仁田厚率いるFMWが肉薄していた時代。

 そのタイミングで全日本を裏方としてすべて仕切っていた馬場元子夫人から、ゴングに打診があった。

「金沢君を新しい全日本の担当にしてちょうだい」

 内政干渉ともいえるが、相手は天下のジャイアント馬場夫人である。ところが、事もあろうにその要請を私は断ってしまった。

「天龍のいない全日本を担当することがピンとこない」というのが正直な理由。マスコミの多くがそうであるように、私も天龍の生きざま、人間性、試合内容に惚れ込んでいたからだ。もちろん現場にいけば、ジャンボ鶴田さんもタイガーマスク(三沢光晴)も川田利明も小橋健太(当時)も、フレンドリーに接してくれたし、なにも嫌な思いをしたことがない。気難しいと言われた元子さんも、まだ20歳代後半だった私をずいぶんと可愛がってくれた。

 だけど、これが決定打となったようだ。それから1年半後、遊軍記者だった私は正式に新日本プロレス担当記者となった。新日本担当といえども、全日本が日本武道館などでビッグマッチを開催するときは、私も助っ人として取材に駆り出される。

 そのとき、入口の取材受付で記帳をするのがイチバンの難関。受付にはつねに元子さんが門番のように立っている。元子さんから見れば、私は全日本を蹴って新日本を選んだ男となってしまうのだ。まったく、目も合わせてくれなかった。

「あら、アナタなにしに来たの?」

「今日は勉強させてもらいに来ました」

「ウチは勉強するような難しいことはやっていませんから」

「それでは、しっかりと取材させてもらいたいと思います」

「勝手にどうぞ!」

これは強烈だった。ただし、門を通ってしまえば気が楽だった。四天王プロレス全盛期。相変わらず、三沢も小橋も気さくに話しかけてくれた。

 1999年に入って、また動乱期を迎えることになる。同年1月6日付けで、私は『週刊ゴング』編集長に就任した。それから1カ月も経たない1月31日、全日本創設者であるジャイアント馬場さんが逝去。5月7日、三沢が新社長に就任した。

始まりからして、私はNOAHから嫌われてしまった

 ところが、オーナーの元子夫人と三沢社長の軋轢が埋めようもないところまで悪化して、2000年6月に三沢は退団。そこに、川田、渕正信、太陽ケアを除く全選手が追随するカタチとなり、7月4日、ディファ有明の事務所で新団体『プロレスリングNOAH』の旗揚げが発表された。

 いまでもよく憶えているのだが、この全選手が集合しての新団体発表記者会見が行なわれたのは土曜日だった。それを意識したのかどうか、翌5日の日曜日、全日本プロレス道場で残留組のエースである川田が会見を行なっている。

 当時、私はすでに確実な情報を入手していた。極秘裏に全日本と新日本が会談をもって、新日本vs全日本の対抗戦(交流戦)が内定していたのだ。

「今後は、他団体との交流も視野に入れてやっていきたいと思います」と川田が口にしたところで、私が突っ込んでみた。

「その他団体というなかには、交流の途絶えている新日本プロレスも含まれていると考えていいんでしょうか?」

「そうですね、それも視野に入っています」

 これで言質(げんち)はとった。週刊誌の締め切りは実質、月曜日の午前中となる。他紙(誌)はまだ情報を掴んでいないだろうし、ライバル誌の『週刊プロレス』が、ディファ有明での選手全員集合の写真を表紙にもってくるのはほぼ間違いない。

 だから、私は独自情報のスクープとして、リング上の川田が戦闘体勢に入っている写真を大きく掲載した。

「川田、新日本出撃へ!!」と大見出しを打って、NOAH全員集合の写真は囲みで小さく掲載した。

 もう、その始まりからして、私はNOAHから嫌われてしまったようだ。というより、三沢社長の右腕である仲田龍さん(渉外部長→統括本部長)に嫌われた。龍さんは、全日本時代には“馬場さん命”でジャイアント馬場さんに尽くし、NOAH旗揚げに際しては三沢と二人三脚で動いてきたブレーンである。

 私自身、編集長職に就いてからは、これまでの新日本担当記者からアタマを切り替えた。世間、社会ではインターネットが普及しはじめたことにより、出版不況の波が押し寄せてきていた。

『週刊ゴング』は業界誌でありながら、もちろん商業誌である。「各団体平等に……」などと言うのはアタマから消し去らなければならない。売れてナンボ、売ってナンボ。社員の生活が自分の手腕に懸かってくるのだから。

 そこで、やはり売れるのは新日本プロレスがメインの誌面作りをしたときだった。これは数字として、突きつけられるのだから仕方のないこと。一部からは、『週刊 新日本』だの『週刊 長州力』だのと揶揄されたりもしたが、結果(数字)が出ているのだから、そこで押すのは当然のこと。

 そうなると、ますますNOAHとの折り合いが上手くいかなくなる。といっても、三沢社長、小橋、さらに秋山準などは現場にいけば、相変わらず好意的に接してくれる。ただし、龍さんだけは厳しいというか、ときどきクレームの電話がきたりして、けっこうやり合った覚えがある。

 

仲田龍さんとの衝突

もっとも猛烈にやり合ったのは、2004年初めのこと。当時、『週刊ゴング』でもゴング選定のプロレス大賞として、『GWYS』(=ゴング・レスリング・イヤー・コレクション)という企画を毎年発表していた。2003年度のMVPは満場一致で小橋建太を選出した。ちなみに、東京スポーツプロレス大賞のMVPは高山善廣だった。

 その表彰式とMVP獲得記念インタビューを行なったのが2月3日で、池上本門寺での節分豆まき大会に小橋が参加したあと。力道山の胸像の前などで撮影をしたあと、池上本門寺の事務所の会議室を借りてトロフィ贈呈とインタビューをやらせてもらった。

 小橋インタビューには巻頭カラー6ページを割いている、その本が発売された翌日に、龍さんから怒髪天の電話が入った。

「あのインタビューを読んで、あるプロモーターからクレームがついたんですよ。小橋は7月~8月のシリーズには出ないのか?と。それなら興行は買えないって!」

「はあー? 意味がわかりません」

「小橋は『G1』に出るんだろ? だったら、ウチは興行できないって」

「なぜ、そうなるんですか?」

「だって、アナタがそういうことを書いたじゃないですか? 清水さん(二代目編集長)や小佐野さん(三代目編集長)はプロレス界のためにがんばっていたのに、どうしてアナタはプロレス界の足ばっかり引っ張るんですか!」

 

 これにはビックリ仰天、青天の霹靂という感じ。つまり、インタビューのなかで、こういうやりとりがあったのだ。2003年の『G1 CLIMAX』に秋山準が初出場。新日本マットで大旋風を巻きこした。

 Aブロックの秋山は、3勝1敗1分けの戦績で公式戦を首位で突破。準決勝でBブロック2位の永田裕志を破り、優勝決定戦に駒を進めた。ファイナルで激突したのは準決勝で高山を破った天山広吉。同ブロックの天山を公式リーグ戦では初戦で秋山が下している。

 結果的に優勝したのは天山。この大一番を見とどけるために、三沢、小橋の大物2人も両国国技館に駆けつけている。それほど当時、NOAHと新日本の関係は良好であったのだ。また、優勝戦では敗れたものの、秋山の活躍ぶりはMVP級であった。

 それを踏まえて、インタビューのなかで軽く小橋に話を振っていたのだ。

 

「秋山の『G1』での活躍は見事でしたねえ。こうなったら、小橋選手が『G1』に出るのも見てみたい」

「ハハハハハ……おもしろそうですね」

「もし出たなら全勝優勝して、もう歴史を変えちゃってくださいよ(笑)」

「まあ、そういうチャンスがあればね(笑)」

 

 これだけである。あくまで、夢の“ついで話”という感じ。読者だって、関係者だって、夢物語だというのは理解できるだろう。まして、2月初旬のインタビューである。そこで、先ほどのやり取りに戻る。

 

「龍さん、ふつうに読んで、あれが決定事項だとか内定しているとか思うほうがおかしいんじゃないですか? まだ2月アタマですよ。それにインタビューには西永さん(レフェリー)も同席していてチェックしているはずですよ」

「西永には西永で言っておきますから。だけど、明らかな営業妨害です」

「あれで営業妨害と言われたら、なにも聞けないし、なにも書けないじゃないですか」

「もういい! アナタとは根本的に考え方が違いすぎるから話にならない!」

「いまの言葉はそのまま龍さんにお返ししますよ」

 

 こんな感じだった。2004年10月、会社の身売りに伴い、私は編集長を辞任して、『週刊ゴング』プロデューサーを務め、その1年後の2005年11月末をもって会社を辞めてフリーとなった。

 

 その間も、フリーになってからも、何度か龍さんとは衝突した。

「アナタは新日本にあらずんば、プロレスにあらずという姿勢ですよね」

「新日本の動員が落ちてきたときに、アナタは『ノアでは本は売れない』と書きましたよね。あれだけは許せないですから」

 私がフリーとなった時点で、「特定の媒体を持っていない」という理由でノアからプレス証を返却するように通達された。無論、これは筋の通った話なので仕方がない。ただし、「だったら会場には行かないよ」とはならずに、関係者の伝手から回ってきた招待券を持って、いち観客として超満員の日本武道館の二階席からよく試合を観戦していた。

 じつは、まだまだ龍さんと衝突したエピソードはあるし、私が最終手段として三沢社長に直接電話をかけて話し合ったこともある。そのとき、三沢社長は面倒くさがることもなく、私の電話に1時間も付き合ってくれたうえに、最後は「俺から本部長に話しておきますから」と事実上、取材解禁の返答をくれた。

 こうして、私は小橋健太の復帰戦となった2008年12月2日、日本武道館大会において、3年ぶりに取材でNOAHの会場に入った。

 こういった話というのはすぐに業界中に広まるもの。龍さんと私は“犬猿の間柄”で、NOAHとGK金沢は相容れない関係と周囲は勝手に思い込んでいたようだ。だから、たとえばNOAH以外の会場で龍さんと私がすれ違ったときなど、まわりは興味津々、固唾を飲んで見守っていた。

 しかし、実際に会場などでバッタリ出くわしたら、きちんと挨拶を交わす。龍さんと私は同学年だったが、業界においては龍さんが6年も先輩にあたる。だから、私のほうから挨拶するのは当たり前のこと。

「龍さん、どうもお疲れさまです」

「はい、どうもお疲れさまです」

 話しかければ、きちんと返してくれる。それに、考えてみれば、龍さんはどれだけ言い争いになったときでも、「取材拒否」の一言だけは決して口にしなかった。

 互いに嫌悪感を抱きつつも、最後の一線は大人として超えない。熱しやすいが冷めやすい。そういう点では、むしろ似たもの同士だったのかもしれない。この人は自分のためではなくて、NOAHと三沢社長のために闘っているのだな。最終的に、私はそう思った。そういう意味で、龍さんがフロントのトップから身を引き、2014年2月に急逝したときは本当にショックを受けた。

 

NOAHの全盛期と衰退

 さて、書きはじめたら、とんでもない長文になってきた。だけど、ここまでが前置きなのだ。つまり、NOAHと私が決していい関係にはなくて(※選手とはべつにして)、それを知っている世代の人には私がオフィシャルのコラムを書くなんてあり得ないと思うはず。それがあるから、事情を知らないファンのみなさんにも長々と説明させてもらったわけだ。

 では、NOAHの全盛期はいつだったかといえば、2004年~2006年当時だろう。

1年に6~7回も日本武道館大会を開催し、つねにギッシリと広い武道館を埋めてきた。

 観客のノリにも凄まじいものがあった。第1試合開始前からできあがっている会場の空気。いってみれば、いま現在の新日本プロレスの会場とよく似た空気感を醸し出していた。

 しかも、NOAHの全盛期は、新日本プロレス冬の時代ともろに被っていた。いわゆる中途半端な格闘技路線を迷走していた時期。オーナーであるアントニオ猪木が、総合格闘技になびいてしまった結果、新日本マット上は混乱し、本来のプロレスがどこかへ追いやられてしまった格好。

 1990年代、ドームプロレスを次々と成功させて、我が世の春を謳歌していた新日本が内部から崩れていったのだ。

 必然的にその比較対象となったから、プロレス道(?)を邁進するNOAHはよけいに光って見えたし、NOAHのビッグマッチに外れなしというのが合言葉にもなっていた。

 実際に、2005年の1・8日本武道館大会(メインは小橋vs鈴木みのるのGHCヘビー級選手権)を取材したあと、『週刊ゴング』の誌面で、「業界の盟主は、NOAHが新日本に取って変わった」と私は書いたことがある。その4日前の1・4東京ドームの内容を思えば、あらためて解説の必要はないだろう。いまでも語り草になっている猪木発案の『アルティメット・ロワイヤル』(8選手が同時に総合格闘技ルールで闘うトーナメント戦)が迷走ぶりにトドメを刺した格好であった。

 その当時、新日本出身者、また新日本トップ選手も、総合格闘技ブームのなかで新日本マットの迷走を嘆くと同時に、NOAHのブレない姿勢を絶賛している。

 まず、2004年4月25日、日本武道館で行なわれたGHCヘビー級選手権、小橋vs高山の大激闘(※小橋が8度目の防衛に成功)をテレビ観戦した長州はこう言った。

「素晴らしい試合だった。あの小橋vs高山戦にプロレス界は救われたんだよ」

 つづいて、冬の時代を牽引してきた永田は、2005年7月18日、東京ドームで行なわれた小橋vs佐々木健介の一戦(『プロレス大賞』のベストバウトを受賞)をテレビ観戦して、熱く語った。

「みんなが総合格闘技を意識して、ウチも格闘技路線に進んでファンが混乱しているなかで、プロレスにしか出せない魅力があの壮絶なチョップ合戦に込められていた。この時代にあって、プロレスの凄みが集約された試合だったから、あれだけ評価されたんだろうね」

 

 一方の新日本プロレスは倒産の危機に瀕するなか、2005年11月、ユークスが新日本を買収して、創設者のアントニオ猪木は完全に新日本から姿を消した。そのどん底状態から、新日本は血を流しながら……つまり大量の離脱者を出しながら、徐々に復活への兆しを見せた。

 闘魂三銃士(橋本、武藤、蝶野)が去って、長州、藤波も去った。それでも、若い力である棚橋弘至、中邑真輔を前面に押し出して、育てていった。そして、2012年1月、ブシロードが新日本を子会社化して、大逆襲がスタート。

 あれから7年かけて、新日本プロレスは完全独走状態を作り上げ、いまやニュージャパンは米国WWEに次ぐ、世界ナンバー2の団体と称されるまでに至っている。

 

 ならば、絶好調だったNOAHの勢いに陰りが見えはじめた時期はいつか? これはもうハッキリしている。2009年3月をもって日本テレビが放送を打ち切り、さらに創設者であり大黒柱の三沢光晴が同年6月13日、試合中に古傷の首に大ダメージを被って逝去したころから。

 方舟は船長を失った。ここ数年のNOAHがどういう状況にあったのか、2015年1月~2016年12月の約2年、NOAHマットを席捲した外敵・鈴木軍のボス、鈴木みのるはこう証言していた。

「オレが昔、上がったNOAHとはぜんぜん違ったよ。みんなバラバラな感じがして。それはひとえに大将がいなくなったからだろうな。三沢光晴がいたからこそ、当時はみんなまとまることができたんだよ」

 

 結局、“脱・三沢”ができないまま時は流れてしまったのだろう。皮肉なことに、NOAHを退団し、武藤体制・全日本プロレスに合流した秋山準が、運命のいたずらなのか、その後の分裂騒動により全日本を背負う立場となった。覚悟を決めて社長に就任し、必然的に脱・三沢を果たすカタチとなった。

 

 そこで、あらためてリング上の分岐点、最大のターニングポイントが見えてくる。週刊プロレス・井上記者が書いていた通り、2006年の12月10日、日本武道館大会。9・9武道館で秋山を破り第10代GHCヘビー級王者となった丸藤正道の3度目の防衛戦の相手が、師匠の三沢だった。

 ここで三沢を破って防衛に成功すれば、完全な新時代、丸藤時代を宣言できたと思う。ただし、いま思い返すと、三沢本人が望んだ挑戦ではなかったように感じる。「まだまだ三沢さんがメインを締めてくれないと、観客動員は厳しい」という、フロントサイドの強い要望があったと聞いているからだ。

 コンディション的に苦しいのは誰よりも三沢自身が痛感している。だけど、会社のために三沢は鬼になった。本音をいえば丸藤に託したいが、会社のためには鬼になるしかない。

 私は、観客席からその試合を観ていた。丸藤の不知火・改が決まった瞬間、勝負アリと思ったが、三沢はキックアウト。反対に、雪崩式エメラルド・フロウジョンを決めた三沢が第11代王者となった。受身の達人同士の試合は、かくも厳しいものだった。

 それ以降、万全のコンディションにはほど遠い状態で、三沢は1年以上にわたってベルトを保持しつづけた。「たられば」はないのはわかっていても、あの一戦が分岐点だった。

 三沢が選手生命を縮めて闘いつづけたのは明らかだし、丸藤はまだ会社の絶対的な信頼を勝ち得ていなかった。結果論として、そう言うしかないのだ。

 これ以上、突っ込んでいくと、リングで散った三沢に申し訳ないし、丸藤には酷すぎるだろう。そこは、まだファンの支持を完全に得られていない状況でも徹底して棚橋、中邑をプッシュした新日本と、脱・三沢に懸けることができなかったNOAH。それぞれの団体のカラーの違いがあり、方針の違いというほかない。

3.10横浜文体での清宮VS丸藤

 あのときと似たようなシチュエーションで、初々しい新王者の清宮海斗、立場を変えた挑戦者の丸藤はなにを思うのか?

 互いのコメントよりも、2・24後楽園ホールで観た前哨戦(丸藤&田中vs清宮&原田)にヒントが垣間見えた。徹底した左腕殺しで清宮の光を消してみせた丸藤は変型キーロック(パーフェクトキーロック)でタップを奪ってみせた。受けの丸藤ではなく、鬼の丸藤。

 何もかも俺の方が上だ――それを試合で見せつけた格好。敗れて、なにも語ることなく引き揚げていった清宮。大金星で王座初戴冠を達成した杉浦貴戦(12・16横浜)、Ⅴ1の拳王戦(1・6後楽園)、Ⅴ2のマサ北宮戦(2・1後楽園)……過去3試合よりも覚悟が必要なことを充分に肌で感じ取ったことだろう。

 1月30日をもって、リデットエンターテインメントが親会社となった新体制NOAH。新オーナーとなった鈴木裕之氏は、まず、「脱・三沢」を掲げた。悪い意味ではなく、NOAHの生みの親で、NOAHに命を捧げて散っていった三沢光晴に縛られ過ぎている現状打破を訴えているのだ。

 そこは、猪木離れによって息を吹き返した新日本と通じる部分も感じる。そこで目に見えるカタチとして、3・10横浜文化体育館大会から、NOAHのロゴマークとリングマットを刷新する。あえて、三沢カラーの緑を外すという。

「NOAHの顔が誰なのか、ハッキリしていない。それはもう三沢さんではなくて、そこが誰なのかこの1年でハッキリさせたい。3年で業界不動の2位にたどり着く。もちろん新日本さんがあるので。いまは何位だかわからない状態、これをやりたい選手だけ残ってくれと」

 鈴木オーナーの口から出たのは不退転の覚悟。揚げ足をとる気はないのだが、いったい現状のNOAHは業界何位なのだろう?

 新日本が独走している後ろには、全日本プロレス、大日本プロレス、ドラゴンゲート、DDT、そしてNOAHがいる。決して楽な道のりではないだろう。

 ただし、鈴木オーナーの言葉の端々からプロレスが大好きなこと、プロレスを理解していること、そのうえでかつて業界の盟主にまで成り上がったNOAHを復活させようという、強い覚悟を感じる。

 あえて例えるならば、瀕死の状態にあった新日本を救ったユークス、そこから新日本ブームのキッカケとなるべくパブリシティに資金をつぎ込んだブシロード。その両方の役割を担ってやろうという心意気なのではないだろうか。

 ある意味、これが最後の船出となるであろう3・10横浜文化体育館大会が、希望に満ちたスタートとなるか、荒波の中での苦しい出発となるか、予測不能。

 ただ、どちらに転ぼうともプロレス界の歴史に印される一夜となることだけは間違いない。だから、心して見とどける価値は充分にある。

 だいたいからして、過去の関係を顧みることなく、常識ハズレのワタクシ金沢にオフィシャルのコラム原稿をオファーしてくることじたい、すでに新たな冒険(航海)がスタートしている証拠ではないかい!?(笑)。 

 

金沢克彦(かなざわ・かつひこ)

1961年12月13日、北海道帯広市生まれ。
青山学院大学経営学部経営学科卒業後、2年間のフリ―タ―生活を経て、1986年5月、新大阪新聞社に入社、『週刊ファイト』編集部・東京支社に配属。1989年11月、日本スポーツ出版社『週刊ゴング』編集部へ移籍。2年間の遊軍記者を経験した後、新日本プロレス担当となる。1999年1月、編集長に就任。2004年10月まで5年9カ月に亘り編集長を務める。同年11月、日本スポーツ出版社の経営陣交代を機に編集長を辞任し、同誌プロデューサーとなる。翌2005年11月をもって退社。
以降、フリーランスとして活動中。現在は、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』、スカパー!『サムライTV』などの解説者を務めるかたわら、各種媒体へフリーの立場から寄稿している。

公式ブログ

https://ameblo.jp/gk-kanazawa/

 

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